【私の物語1】10歳で人生を諦めた私が、なぜ今「令和の卑弥呼」になったのか?
私は、10歳で人生を諦めました。
それから「頑張る」ということが、
どうしてもできなかったんです。
母は、完璧に見える人でした。
「テストは100点を取るためにある。」
「試験は受かるためにある。」
「TOPをとって当たり前。その先を目指せ。」
これが、母のモットーでした。
私は、母に褒めてもらいたくて、
一生懸命お手伝いをしました。
小学校3年生に頼むお買い物が、
醤油・砂糖・みりん・大根・白菜・じゃがいも・にんじん・玉ねぎ…など、
合計10kg程度のものを、
スーパーの大きい袋2、3袋分。指先が紫になりながら、
休み休み持って帰っているのに、「当たり前」で片づけられる。
学校の成績も一番上を取って「当たり前」。
私が頑張っても「当たり前」で終わり、
そして「これが出来るならあれも出来るでしょ」と更なる課題。
それを頑張っても「当たり前」で、また更なる課題…。
これに疲れ果ててしまって、
頑張っても何も得られないと感じてしまったんです。
9歳まで、これをやったら認めてもらえるかもしれないと
頑張って無理をして、何をやっても
認めてもらえないと気づいて、
プツンと何かが切れてしまいました。
それが、10歳の時です。
今、HAPPY理論で学んでいるから分かりますが、
当時の私は「外に存在確定を求めて絶望してしまった」
のだと理解できます。
だけど、当時の私は「私は要らない子なんだ」と、
自分自身に決めてしまったのです。
当時、父はよく褒めてくれていました。
だけど、母の冷たい言葉の後だと、
それが嫌味にしか聞こえなくて…。
それで、もう頑張ること自体ができなくなっちゃったんです。
父は、自分が我慢すれば丸く収まるという考えを持つ人でした。
そのせいか、いつも自分をどこかに置いて、
家族のためにと頑張ってくれる人でした。
そんな父が、限界を迎えて認知症になったのです。
父は、最後まで家族と一緒に居たいと常々言っていたので、
その願いを叶えようと、
何も考えずに住宅ローンを組んで、
介護しやすい家に移り住みました。
その返済のために、私はパンの資格も取得していたので、
パン教室で起業しようと思いました。
だけど、人が全然集まらない。
コンサルタントを入れて頑張ってみるのですが、
たまに集まっても、私の健康志向のコンセプトとはズレた要望ばかり。
「チョコたっぷりのパンが作りたかった」とか
「メロンパン作りたい」とかで、
正直うんざりしちゃって。
周りを見たら、
ちゃんとペルソナ通りのお客さんを集めている人ばかりに見えて、
「あぁ、私にはやっぱり無理なんだ」って、
ここでも頑張れずに挫折したんです。
自分の心が弱いのかもと思って、
コーチングに加入したこともありました。
でも、ここでもね…
「夢を語って気分良くなろう!!」っていう企画を発案したの。
コーチが計画していたのも分かっているのに、開始5分前に潰されたんです。
先輩からは、「他人の城でやるな。やるなら自分の城でやれ!」って怒られ、
コーチが信用できなくなっちゃって、
最終的には強制退会。
もう、「どこに行っても私は要らない存在なんだな」って、
無意識の前提がどんどん強化されちゃったの。
ここでもやっぱり継続できなくて、また挫折。
そんな中でHAPPY理論に出会って、
「コレが真理だっ!!」って直感したんだけど、
日本語なのに内容がマジで理解できないの(笑)。
でも、「解るところだけ頑張ろう!」って決意したら、
なんとなく生きづらさはなくなってきたんです。
効果はあるはずだって、なぜか信じられたんですよね。
でもね、しあわせってこんなものじゃないはずなのに…って、
またモヤモヤ。
同じ時期にHAPPYちゃんを知ったミカちゃんは
数千万の稼ぎを出しているのに、
私は借金で首が回らない。
「私には無理なのか?」って、ここでもまた挫折しかけたんです。
そんな時、HAPPYちゃんが
「こういう地味なことをコツコツやってるからこうなってるんだよ。
みんな言ってもやらないでしょ!」
って言ってるのを聞いて、ハッ!ってなったの。
「あ、習慣化が大事って昔から言ってる」って。
ミカちゃんは、やってきた人。
私は、日常に忙殺されて出来なかった人。
6年でこれだけ差が出るんだと知った日でもありました。
でも、ひとりだと、やっぱり何度も三日坊主になっちゃうんだよね。
継続できなかった一番の理由は、
「日常に忙殺されて、優先順位を上げられなかったこと」だったんだ。
▶ 次の記事の予定は…
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