
掘ってみたら子供の頃の傷に辿り着いた
ダイエットが次のチャレンジかも?!
そう思って、試行錯誤しながら記事を書いていたら
昔の事を思い出した。
私は昔から、やりたいと思ったら動くタイプ。
よく言われる
「でも」
「だって」
「どうせ」
も、あまり使わない。
やってみたいと思ったら、とりあえずやる。
だから、
「やりたいのに怖くて動けない」
という感覚が、実はよく分からなかった。
やってみて楽しくない。
そういう時はやり方を変える。
それでもダメなら止める。
楽しい事や、苦にならない事は続いている。
そんな私が、唯一ハッキリ恐怖を感じた事がある。
源会議でやった、
「無限のパイ」ワーク。
当時の私は、というか今もだけど
給料日前はいつもギリギリの状態。
そんな中で、本気で食べたいケーキを
生み出すために材料を買った。
その時、意味が分からないくらい怖かった。
いつもと違うのは、必要以上の買い物をしたこと。
ギリギリ生活なのに、金粉なんか買う余裕ないのに。
私が本気で欲しいと思ったケーキには金粉がかかっていたから。
ただ、それだけ。
なのに怖かった。
だから、
【知りたい】
と思って、そのままにしておいた。
そして今回。
ダイエットの記事を書いていたら、また変な感覚が出てきた。
ケーキの時みたいな、ハッキリした恐怖ではない。
でも、
なんか投稿したくない。
せっかく書いたのに投稿したくない。
なんで?
そう思って、自分に聞いていた。
そこでAIとの壁打ちの中で、一つの仮説が出てきた。
最初は、
私は失敗が怖いのかもしれない。
そう思った。
なぜなら、幼少期から何度も聞いてきた言葉がある。
出来て当たり前。
結果が全て。
母は実際にそう言っていたし
私はそれを当たり前の世界として育った。
だから、
四半世紀痩せられなかった事実。
何度もリバウンドした事実。
そういうものが出てきているのかもしれないと思った。
でも、話を掘っていくと少し違った。
私は10kgくらいなら落とせる。
問題はその先。
更なる減量、その後の維持。
そこまで想像すると急に嫌になる。
我慢の限界。
一生これを続けるなんて嫌だ。
だから止める。
実際、無理して続けたら、身体を壊しかねない。
だから私はずっと、
「無理だから止めた」
と思っていた。
でも、それだけではない気がしてきた。
子供の頃、私は一度、本気で頑張った事がある。
代替案まで考えた。
どうにかしようとした。
本気だった。
でも何も変わらなかった。
そして返ってきたのは、
情けない。
根性がない。
努力が足りない。
そんな言葉だった。
今思えば、母が他人の意見を取り入れる人ではなかった事くらい
火を見るよりも明らかな事実なのだが。
でも当時の私は、
変わるかもしれない。
解ってくれるかもしれない。
そう思っていた。
だから傷付いた。
母が変わらなかった事も辛かった。
でも本当に辛かったのは、
変わると思った自分だった。
代替案まで出したのに。
本気で考えたのに。
その時、
私は母だけじゃなく、
自分の判断まで信用できなくなったのかもしれない。
ケーキの時の恐怖も、
ダイエットの記事を書いていた時のモヤモヤも、
もしかしたら同じ場所に繋がっている。
本気で自分を信じる。
また自分にガッカリしたら?
その怖さ。
だから私は、
本気でやる。
ある程度のところまでは進む。
でも、
その先にある工程を見た時
今まで以上の努力と頑張りが必要
という段階になると、急に足が止まる。
また自分にガッカリしたら?
そう思うと、
これ以上はやめておこう。
となる。
その方が傷付かないから。
でも、そのままじゃ幸せになれない。
今回の記事を書いて気付いたのは、
私が怖かったのは
自分を信じて傷付く事だったのかもしれない。
もしそうなら、
私が向き合う相手はダイエットそのものではなく、
ずっと昔に失った
「自分への信頼」
なのかもしれない。
つな台国は、気まぐれに更新されます。
その合図を、LINEで受け取れます。








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