【はじめの法則】を信じ続けて正解だった
たまたまネットニュースで見た記事の一文にちょっと救われた。
それが以下の内容
「愛の反対は憎しみではなく無関心」
という言葉があるけれど、
愛憎半ばしているうちは
親の呪縛からは逃れられない。
それこそ親の死に目に会えなくても
「それが何か?」と
言える境地に一度は至らなければ、
いったん歪んでしまった絆から
自由になることは
できないと、私は思う。
by「生活保護」で俳優を目指す46歳男性の葛藤 なぜそこまで「母に認められたい」と思うのか
親子関係は歪んでない人が
ほとんどなんだよね。
だから、
親を大事にしなさい。
親に向かってなんて口をっ!!
誰に産んでもらったと思ってるの。
なんて他人にも言われるわけ。
でもね。
その親が毒親と呼ばれる部類に入る場合。
親の死に目に会えなくても
「それが何か?」と
言える境地
ココに辿り着かないと自由になれない。
私は、父が大好きなの。
父の介護を手伝いたくて
父の為に住宅ローンを組んで
父の為に同居を決意した。
だけど、
私は、奴隷ですか?
使い古しのオモチャですか?
って対応に
もう、その父の死に目に会えなくても
しょうがない。
そこまで追い込まれて親を捨てた。
「親を捨てた」
この文字を打てるようになるまで
どれだけの想いの中藻掻いたか。
つまり、一生懸命向き合ったの。
捨てる前は、恋愛・友達という
近くに置く人間関係で、だいたい奴隷か
使い古しのオモチャ扱いを受けていた。
父はいまでも大好きだし
隙を見て会いに行ってる。
だけど、コレが最後と毎回思ってる。
また、父同様、今でも繋がってる人は
そんな対応をしてなかったことに
今更気づく。
ニュースの文中に
親は意図的に子どもから
自己肯定感を奪うわけではない
とあったが、私の場合、訴えている。
訴えて尚且つなのだ。
今となっては、どうなろうと
知ったことではない。
絶望して、怒りと恐れと虚無感と
混沌とした渦の中で恩人に光を見せてもらった。
あれが無ければ、今の私の幸せは見つけられない。
【はじめの法則】も気付けなかった。
そして、経験値と勘だけを頼りに
【はじめの法則】が正しいと信じ続けた。
結果、私の心地良いに従った行動が、
ニュースの一文で肯定されるとは
過去の私は、想像もできない。
誰もが、本気で変わろうとすれば変われる。
アナタは、今の苦しみから
本当に開放されたいのだろうか?
例え、痛みが伴うとしても
その覚悟があるなら
ココロのレッスンで変わっていこう。